栃木県宇都宮市の葬儀は有限会社 旭霊柩へ │葬儀│仏壇│仏具│自社霊安室

 

葬儀屋になったわけ

 

なぜ葬儀屋になったのかの経緯

なぜ葬儀屋になったのかの経緯
 
葬儀屋になる前のお話し
20代半ばの頃は、㈱千○時計店に勤務。その会社はとあるデパート(百貨店)内にテナントとして入りその百貨店が出店している店舗の時計・宝飾売り場にて販売展開をしている会社でした。
その頃の自分は、将来の事など考えもしない「ノー天気」な人種の一人で入社理由は、○武の宝飾フロアーにはいい女がいるよな、「絶対楽しい」これだけの理由でした。もちろん面接では、さもやる気のある姿勢を前面に出し邪(よこしま)な考えは封印し見事合格途中入社になり地元の宇都宮店勤務を希望したのですが、人員補強対象店舗は大宮店で大宮勤務になりました。ビシッとスーツを着用していざ出勤。未知の世界でしたので環境に慣れるのに大変でした。宇都宮にずっと居たのでなまり(方言)も強く売り場内では笑われながら少しずつ職場環境に慣れてきて、また女性が多いまして美人率が高い環境はいいなと充実感に浸っていたのです。上司からある日、外販部隊に配属され(要するに百貨店の外商のお客様に高額商品を販売する営業部門)
女性の職場から「ガチ」営業バリバリの外回りになってしまったのです。
「わくわく環境からの初心者ビジネスマン」の心境でした。
出社(百貨店)に行き売り場にて朝礼後、外商事務所に顔を出し商品の売り込み、外回りの後日予定確認、本日の外商同行確認、売り場事務所の金庫より高額商品搬出、百貨店搬出商品検品、
一連の作業後、百貨店の外商マンと同行外出(外商のお客様に営業回り)
「ノー天気」の性格でしたので、高額商品を販売する事自体がどうすればいいの・・・?
てな感じでダメダメ社員でした。
そんな時、自分の事を面倒みてくれてた上司から一言。
「一人の外商マン(百貨店社員)にピッタリ付、毎日その人と外出しろ」
言われた通り「運転手でも何でもしますから」同行させて下さいと頼み込み、会社は違う
けど師弟関係になりました。
高額時計の外販員であるのに、毎日運転手、荷物持ち、その当時は残業など当たり前、
お客様食事とお酒を勧められ師匠は笑顔で晩酌のお付き合い。自分は食事のみで
お話しの聞き役。「これでいいのか?」何だか分からない日々を淡々としていました。
外商では年間に数回、催事といわれる百貨店系列のホテルにて芸能人などを招いて販売会
&ディナーショーおこないます。
とても華やかな世界です。(のちに葬儀業界に移るきっかけになる華やかな世界です)
当然、販売予算も付くわけで各店舗の外販部隊や提携業者、あらゆる商材、人、
高額所得者のお客様、田舎者の自分には場違いでした。しかし個人予算もしっかり付いて
ましたので、控え室にて販売予定もない時間つぶしをしてました。
すると、師匠が自分を探しているぞと上司に言われ、高級時計のブースに行ってみると
師匠と晩酌をしていたお客さまが笑顔で迎えてくれたのです。
 お客様:今日は買わされちゃう日なんだよ。(笑)
 師匠:すみません。買って損のない商品をおすすめ致します。
 お客様:大垣君、時計だよね
 自分:あっ ハイ
 お客様:時計みせてくれる(笑)
想像はつくかと思いますが、高級時計と奥様用の高級ネックレスお買い上げ。
この時、なんとなく販売(商売)て、お客様が必要な商品の場合をのぞき、
仕事なんだけど、人と人との付き合いからなんだと実感しました。
そんなこんなで、半年ぐらい師匠にべったりの毎日でしたが、師匠回りの部署の方が自分の行動を見ていて
くれたのですね。「俺とも同行してみる?」と声をかけてくれたのです。一人二人・・・・気が付くと外商部
の方の半数と営業まわり出来るようになりました。成績もアップ 仕事終わりの飲み会にも参加できるようになり自分的には、まあ売り上げの厳しい月もありましたが、充実した日々を送っていました。
そんな矢先、地方店舗では1,2を争う売上店、筑波学園都市への転勤の話が舞い込んできました。何年後かに大宮店(百貨店)は撤退するようなのです。上司が自分の為に、ここに居るより早めに筑波に行った方が良いとの判断からです。約2年半大宮にはお世話になりました。上司・師匠に恵まれ感謝と良い思い出しかありません。
そして、筑波店
その当時は、筑波学園都市には筑波大・研究施設職員・元々地元の住民が入交り、ちょっとかわった地域で
大型百貨店(デパート)は1店舗だけでした。なぜ売上が上がる店舗なのか?転勤してすぐにわかりました。
買い物ができる大型店舗が無かったのです。外商も、他地域店舗から来てる他社だけなので、価値のある物品商材も、東京か千葉に行かないと買えない状況だったのです。ですから自分達外販と、百貨店の外商マンが持っていく商品には興味があり、物欲もますわけです。結果、販売にいたり実力以上に数字がついてくる。
そんな環境で、2年ぐらい勤務させて頂き、自分が成績も良く天狗になっている事に気ずきもせず筑波の上司に反抗的になっていきました。
そしてついに、「成績出しているのに細かい事うるさい!あなたにはついていけないのでやめます」と言ってしまったのです。今思えば社会人失格です。
そして退社。。。
宇都宮にもどり3か月間無職の時期のはじまりです。
 
葬儀社に就職決意
 宇都宮にもどり安易に、どこか再就職すればいいや!
なんて思っていました。
少し休み就活すればどこかあるし。・・・1か月2か月と日にちが過ぎていきました。
職安(今でいうハローワーク)にはいきませんでした。もっぱら就職情報誌専門でここがいいかな?なんて、
どこから目線で考えてたのか、あの時期はただの馬鹿野郎だったと思います。
年齢も三十路にさしかかり結婚の話は省略して書いていませんでしたが、してました。子供(長女)は生まれたばかりで、妻(のちに離婚になる)の実家で落ち着くまで生活をしてもらい、ダラダラと就活。
3か月目に入りだした頃、今さらながら何がしたいんだと、あせりがでてきて ない頭で考える日が多くなり、そういう時に限って華やかな世界の事を思い出すんですね。
現実に戻り、生活や金銭の事を考え「これじゃだめだ」と思い、やっと重い腰を上げ動きだし
真剣に就職情報誌を隅から隅まで目を通すと、○○葬儀社 社員募集の記事が載っていて、その記事に集中している自分がいました。
バブルという時期があり高級時計を販売していた時は、バブル終焉の時期だったと思います。その頃からいずれ華やかな時代から、脚光を浴びない専門職の時代がくる 光と影 
頭をよぎりました。葬儀屋なんて考えた事なかったです。
「○○葬儀社です」
「社員募集の広告みたのですが」
電話してました。後日葬儀社就職決定
 
葬儀社修行時代
 創業120余年 現社長4代目の
老舗の葬儀社です。社長・大奥様・専務(社長夫人)・事務員2名・作業員女2名・男性社員3名
合計10名の会社でした。
当時の宇都宮市の葬儀形態は何社か自社セレモニーホールをもっていましたが、80%は自宅葬の時代です。
花環(パチンコ店によく飾ってあるもののお葬式バージョン)は毎日注文があり、荷台の屋根が高くなっているトラックで栃木県内の自宅で葬儀をしている所に配達(花環を立てる)に行ってました。その間に、宮型霊柩車(キンキラ金のお寺に竜が屋根についた荷台のアメ車)が他の葬儀社から運行の依頼があり、火葬場まで運転手をしたり、自社で葬儀の依頼があると、病院へお迎えにいき自宅安置・枕飾り後打ち合わせ、会社に戻り祭壇、幕、矢来、提灯、6尺・4尺の机類、香炉類、パイプいす、ドラム、ライト、テント、受付用具、金庫、など・・・トラック2台に積み込んで、自宅で葬儀が出来る準備を整えます。
現在の葬儀社の社員のイメージとは違い男性は、ほぼ筋肉質でタフな野郎のイメージです。社員同士の忙しい時の会話は、まるでヤ○ザです。
昼食時にビールを飲んでいる姿は特別でもなんでもありません。その環境は今まで働いていた職場とは180度変わりましたが、頭を使う部分もあり・体力は限界まで使い、オーバーですが生きてると実感できるものでした。
入社して3か月の頃には、この仕事は自分で経営したいと思うようになっていました。
この業界に入ってみて死とみつめあう職業は奥が深い色々と学ぶ事がたくさんあり、一長一短(良くも悪くも)すぐには当然無理でしたので、じっくりかまえて修行していこうと思った時期でもありました。
 
「ピイピイピーイ」あれ!検問だ
葬儀社に入社して無我夢中で先輩社員についていき、だいたいの流れの仕事ができるようになり、任される事が多くなってきたその当時
今では考えられない業界の出来事です。(もう何十年も前の話ですので時効でお願いします)
社長から夜9時ごろ電話が入り、「○○病院へのお迎えです。葬儀の依頼です」
今のように当直体制は、ほとんどの葬儀社はとられてないのが現状だったと思いますが、社員が夜間など呼び出しで業務をこなしていたのです。
その日は夏の時期で、通夜も入ってなく5時半には仕事を終え自宅に帰りビールが、おいしい事、おいしい事
ぐいぐい進み、ほんわか気持ち良い状態でした。そんなときの社長からの電話です。
「社長!今日は無理です かなりビール飲んでしまいました」
「わかった 他、電話してみる」
   何分後
「誰も連絡つかない 俺(社長)も今日は専務も誰も居ないので電話番で動けない」
「・・・・・わかりました」
その頃の搬送車(病院に迎いにいく車)は葬儀の時の霊柩車兼用でしたので、誰がみても夜の霊柩車は死、お迎えだとわかるものでした。
 
あっ終わった検問でおまわりさんに止められたのです。
すぐに、おまわりさんは気ずいたと思います。
車の窓は三分の一しか開けることができませんでした。 沈黙が5秒ほど続く「とても長い5秒に感じました」
「ごくろうさま」おまわりさんからの意外な一言 ハイいっていいですよ
古き良き時代、現在では絶対ダメです。アルコールチェックは必修です。飲んだら乗るな、でもちょっとだけ許された時代だったのでしょうか?
 
「自宅で亡くなりました。何時頃きていただけますか?」と電話が入りました。
自分にも後輩が出来て、二人で行こうかと向かいました。
自宅で亡くなると、死因解明の為、検視がはいりますが死因は自殺でした。男性です。
奥様がいらしてましたので、ご愁傷さまでございますと頭を下げ、処置をさせて頂いてもよろしいでしょうか?そのあとに今後の葬儀の打合せをさせてくださいと言葉をかけ、別部屋にてお待ちいただくよう頼みました(ドライアイスを体に当てるのは、あまり遺族には見せたくない配慮から)
後輩が検視後なんで裸ですよね?浴衣に着せ替えしましょうか?と上掛けの布団取って自分は浴衣の準備をしていたところ、先輩着てますよ大丈夫ですと言いました。
その何秒後かに「クスクス」と小声の笑い声が小さく聞こえてきました。
何、どうしたの?ダメだべ 見ると浴衣は着てるし首元にあとが残っている神妙な雰囲気なのに
先輩ちょっと外で話いいですか?
「すみません 着てる浴衣見てください、奥さんが着せたのですよね」
「ふうてんの寅次郎の男はつらいよなんです。それも全体に男はつらいよの文字がたくさん」
「自殺ですよね?で、奥さんそれ着せますか?」
その風景が脳裏に入ってきちゃってつい・・・・
それを聞いて、まっ でも忘れてドライアイス当てようか と戻り当てようとした瞬間、やっぱり「男はつらいよ 男はつらいよ 男はつらいよの文字が」
速攻で外にでました。
すみません笑っちゃいけないのですが笑ってしまいました。
 
エピソードは沢山ありました 葬儀社修行時代は楽しかったり、驚いたり、感銘して泣いたり、苦しかったり
10年間の修行生活でした。お世話になりました○○葬儀社関係者一同様 本当に感謝いたしております。
 
独立 旭霊柩開業
 10年で葬儀業界の自宅葬からホール葬に目まぐるしく変化いたしました。
そのような中、自分の年齢も39歳の年を迎え、そろそろ独立へ向け意志をかためる時期と心底思っていました。
葬儀社になる経験は積んできた。さてどうする?
あっ!!一番大切な事をしてなかった貯金をしてなかったのです。
これでは時期早々です。それでも、もう気持がそこに向かっているので
独立したい旨を話し快諾して頂き○○葬儀社を退社しました。
 
そうだ!葬儀社になる前に霊柩運送事業ならスタートとしていい。
最初の立ち上げの出資金は車1台から出来る。まずは葬儀業界へ独立の一歩としてスタートさせて頂きました。はい 考えは甘かったです。
まず、霊柩運送事業は許可申請手続が必要です。一般貨物自動車運送事業(運輸局)青ナンバーて事ですね。
専門の司法書士さんに依頼をしても、3~4か月の時間がかかります。(その当時)
自分の場合は中古のクラウン霊柩車をなんとか購入しその販売してもらった業者さんが、一般貨物の許可取得も込みでどうですか?との事でしたので、なけなしのお金をはたきお願いしました。
ここで本来なら3~4か月耐えれば申請が通ったのでしょうが、実は購入したクラウンは車は程度の良いもの
でしたが、契約の営業社員からの購入でしたブローカー的な営業マンでなかなか申請の書類作成に入ってもらえず挙句の果てには埼玉の先生を連れてきて、これから作成しますとの事でした。半年以上かかってしまいました。
出だしで失敗してしまった自分は途方にくれる事になり、大型2種の免許を持っていたため知り合いのバス会社さんにお願いして、取得までの期間バイトさせて頂くことになりました。
バスのバイトも不定期なので夜中は代行の運転をし、代行とバスが重なった日は、寝ずにバス会社に向かい朝、目的地まで送り待機時間にバスの中で寝て夕方送りかえし、そして代行のバイトでした。
こんな事していたら体がもたないなとつくずく思いました。
そんな生活が続きましたが、やっと許可申請が通り晴れて霊柩運送業のスタートです。
霊柩車の写真を撮り印刷し自分でカタログをつくり葬儀社めぐりです。
ある程度まわり終え、仕事の依頼まちでしたが、来る日も来る日も電話1本なりません。
あ~食べていけないなあ。考えが甘かった どうしよう・・・・また1周まわってみるか・・・
何回そんな事していたでしょう。
すると、ある葬儀社様からうちの車なんだけど搬送(病院にお迎え)に行ってくれるかな?すぐ会社にきて と電話がはいりました。搬送代行運転手です。本意ではありませんでしたが、背に腹は代えられずやりました。すると、今度は「うちね当直要員が少なくて大垣君泊まってうちの業務してくれないかな?」とその葬儀社様の社長さんに言われました。仕事も無いし日当は請求していいとの事でしたのでやらせていただく事にしました。1年ぐらい自分の仕事と兼用して読けました ある日当直の業務以外の時間帯に大垣君の車で、お迎えに行ってくれる?と電話が、その葬儀社様からです。
認めてくれたのです。こいつにならうちの仕事を。
その後、当直業務はやめましたが、仕事の依頼はして頂けるようになり、1社だけでも生活できるレベルになりました。その噂を聞きつけたのか?1社1社と取引を伸ばす事ができるようになってきました。
昔、時計販売の営業をしていた時、師匠について回り無駄だと思った事が実は正解だった事を思い出しました。職種は違えども、根本的な事は一緒なんだときずき、ある程度の無茶ぶりの依頼もハイと答え業務をこなしてました。しかし一人は一人の仕事、業務内容は出来る事なのですが時間という壁がありました。
よし、人を雇おう。そして人材集めは苦労しましたが運転手を一人確保できました。車両も増車して倍の仕事量とはいきませんでしたが少しだけ売上も伸びました。利益率は1人の時のが良かったですが、仕事の断りは減少しましたので結果的に良かったです。そして更なるチャンスが巡ってきたのです。
葬儀施行件数が多い葬儀社様に営業に行った時、この部門(病院からのお迎え)はすべて外注にする事になった。1か月試し後、旭霊柩に依頼してもいいとの事でした。
とても2名では今の仕事と新たな仕事は難しと感じていたのですが、ダメ元でやってみる事にしました。
時には連続での運行、もう許してまたですか?と言葉にはできませんでしたが仕事の依頼が入ってきました。そんな心境で1か月間、がむしゃらでこなし専属業者になることができました。そして、新たにドライバーを増員、車両も増車しました。
それから1年後、ドライバー4名、車両4台になってました。
 
業務拡張期
 葬儀業界も数年で状況が変化します。自宅葬~ホール葬~家族葬~直葬
そんな折、旭霊柩も時代にあわせて変化しないと置いていかれます。
病院で亡くなられ自宅へ帰ることができない(家庭の事情や状況で)方が年々増加してます。セレモニーホールへ直接搬送依頼も増え、自社でセレモニーホールを持ってない葬儀社様も旭霊柩のお客様には、いましたので、公営の斎場で葬儀をする場合、一旦安置(病院から戻る場所)があると助かるんだよなともらしてました。宇都宮市の公営斎場 悠久の丘では、死亡場所からの霊安室受け入れは納棺後、日中の指定時間に限り、式場利用が前提なので、夜間や直葬(お葬式をしないで、家族のみでお別れをし火葬する)希望の遺族には対応できません。
最初に迎えにいって、どこにも帰れないでどうするか?決まるまで待機
セレモニーホールを持っている葬儀社に依頼なおし・・・
家族葬のお葬式が主流になってきた今、何億をかけて葬儀式場を建設する葬儀社様も一部の互助会系の葬儀社様ぐらいになってきました。セレモニーホール建設ラッシュの時期建てられた葬儀社様も専用の家族葬ホールか、式場内を改装し家族葬対応に変更されております。
前出の葬儀社様も家族葬主流の今、葬儀単価も下降している中でホール?・・・・となってしまうのは分かるようなきがします。
そこで、旭霊柩も考えなくてはいけない時期がきました。
一旦安置(病院などから帰れる場所・部屋)の提供を出来る小規模施設を持つ事が旭霊柩の使命じゃないかな?と(ちょとかっこつけてしまいましたが)
それから、場所の選定や建設会社選択・銀行融資(ここでの苦労話は省略させて頂きます)
をへて、なんとか作ることが出来ました。MORGEモーグという名称にしました。少し時期をずらして、ドライアイスを使用しないで済むように冷蔵室を完備し、ご遺体を葬儀までの間、良い状態でお預かりできるようにしました。直葬も可能です。
 
実は、このMORGE モーグが数年後、株式会社モーグ(葬儀社)になることは、この時点では想像もしていませんでした。
 
㈱モーグ(セレモニーモーグMORGE)設立
 小規模安置施設MORGE(モーグ)を展開させて頂き、ご遺体を一時安置出来る施設を持っている事により、取引のある葬儀社様や県外の業者様など、また、葬儀専門誌フューネラル様の取材等を受けさせて頂き、少しずつ知名度が上がりご利用頂けるお客様も増えてきた頃。
好意にして頂いてる葬儀社の奥様から電話がありました。
大垣君、うちの旦那が倒れたの聞いてる?今、入院してるけど体に麻痺が残るの、リハビリである程度もどると言うけど、日数がどれだけかかるかわからないので、うちで葬儀受注したら、代わりに施行してもらえないかな?との事でした。自分が葬儀社勤務時代を知っていたので頭に浮かんだと思います。
それと、その当時はまだ、旭霊柩は葬儀の営業はしておらず、霊柩運送業と安置施設の会社形態でしたので、
葬儀社が葬儀社に頼むより葬儀社が霊柩運送会社に頼んだ方が、何かと都合が良かったのです。
そして、その依頼はすぐに発生いたしました。
これは、好意にして頂いてる葬儀社様本来の仕事ですので、何か粗相があってはいけないと、誠意をこめ葬儀施行をさせて頂き無事に努め上げ、おほめの言葉もいただきました。
すると、今まで長年葬儀社を営んできた会社でありますので、月に何回か葬儀受注があり、その都度施行依頼がありました。
うちの会社でも、知り合いなどから少しずつ葬儀の相談や依頼が入ってくるようになり、本格的に葬儀社としてやっていかないと、お客様に失礼ではないのか思うようになりました。
しかし、現状 霊柩運送業を営んでいる為、大半のお客様は葬儀社様です。葬儀社としてデビューとなると、宇都宮の葬儀社様に反感をもたれる可能性が多かったのです。
霊柩運送業を営むのに、当時は社員6名車両6台になってました。仕事量はそこそこ発生しておりましたが、単価が低いのもあり、赤字にはいたりませんが、多少の利益で会社を回していました。
葬儀業界に入り、すぐに自分で経営したいと思い、試行錯誤を繰り返し20年の月日が流れ、今がチャンス時期だと実感しておりました。
「決めました」
まっ、開き直りですかね?
旭霊柩とは別の法人にして、株式会社モーグを立ち上げました。
10年霊柩運送業をさせて頂き、取引先の葬儀社様には正直に事情を話させて頂き理解を得て、(有)旭霊柩と㈱モーグの2つの会社を営ませていただいてます。
今後の目標は、自社式場を持つ事です。今の時代に?公営の式場でいいんじゃない?との意見が多いのですが、
何か「ピン」とこないのです。
葬儀ブローカー的な感じが否めないのです。(公営式場にて葬儀施行する会社でも、しっかりしている所はありますが)
今は、お客様(遺族)に真摯に向き合い、頼んでよかったと言われるように実績と信用を積み、自社セレモニーホール建設を実現できるように、精進してまいりたいと思っております。
<<有限会社 旭霊柩>> 〒320-0806 栃木県宇都宮市中央5-19-6 TEL:028-649-8500 FAX:028-601-8955